慶應大学の前野隆司教授が提唱する「受動意識仮説」、以前の記事でその面白さに触れました。
“受動意識仮説”ふわっと解説。東洋哲学や仏教にも通じる「幻想の世界」へようこそ
今回はさらに掘り下げて、「私たちの意識」について考えます。「無意識」とか「潜在意識」といった言葉をよく耳にしますが、具体的にどんな役割を持っているのでしょうか?この記事では、その仕組みをゆるやかに解説していきます。
受動意識仮説とは?
前野教授の受動意識仮説では、「意思決定は潜在意識の中で行われ、私たちが自分だと思っている意識(=顕在意識)はその結果を受け取るだけ」という考え方が示されています。ここで言う「潜在意識」は、無数の「無意識の小人たち」と表現されることもあり、彼らが情報を集め、合議制で決断を下しているのだそうです。つまり、私たちが「自分で決めた」と思うことも、実は潜在意識の成果物を顕在意識が受け取っているだけなのかもしれません。
仏教的な「無我」と「非我」の説明も可能に?
この仮説が注目を集める理由の一つは、仏教の思想との親和性です。「無我」と「非我」という仏教の概念をうまく説明できるからです。無我は「私は存在しない」という考え方で、受動意識仮説では、意思決定を行っているのは潜在意識なので、顕在意識としての「私」は存在しないとも言えます。一方、非我は「私は私ではない」という意味で、顕在意識は潜在意識が決めた結果を受け取るだけであり、自ら意思を持つ存在ではない、と考えられます。仏教ではこれらの概念を巡って議論が続いてきましたが、受動意識仮説では両方を矛盾なく説明できる点が興味深いですね。
意識には種類がある――顕在意識と潜在意識
受動意識仮説を理解する上で欠かせないのが、意識の種類について知ることです。「顕在意識」と「潜在意識」、この2つをざっくり整理するとこうなります。顕在意識は自分で認識できる意識。思考したり、悩んだりしている「私」のこと。一方で潜在意識は普段は自覚していない意識で、過去の経験や価値観が蓄積され、無意識的に働いています。この仮説では、実際に意思決定を行っているのは潜在意識であり、顕在意識はその決定を受け取っているだけの存在とされています。
顕在意識は「受け手」かつ「記録装置」
では、顕在意識がただの受け手であるとしたら、私たちが「自分」と認識しているこの意識は、一体何の役割を果たしているのでしょうか?それは「記憶装置」としての役割です。顕在意識は、潜在意識が行った意思決定を記録し、私たちの「エピソード記憶」を形作る存在だと考えられます。
「私」とはエピソード記憶の連続体?
記憶は大きく分けて「短期記憶」と「長期記憶」があります。そして、長期記憶の中には以下の2種類があります。意味記憶は物事の使い方や価値に関する記憶(「りんごは食べられる」など)。エピソード記憶はこれまでの人生の出来事や経験を連続的に記憶するもの。私たちは、この「エピソード記憶」を振り返ることで、自分の人生を感じ、「これが私だ」と思います。受動意識仮説では、このエピソード記憶こそが「私」の正体だと考えられます。
「私」が記憶だと考えると気が楽に?
「私」という存在が、単なる記録装置に過ぎないと聞くと、少し寂しい気もします。しかし、意外とこの仮説に救われる人も多いようです。現代では、「自己責任」や「自分で切り開く人生」といったプレッシャーが多くの人を縛っています。受動意識仮説を知ると、「私なんてただの受け手だし、無意識が全部やってくれてるんだ」と気楽になれることがあります。例えば、「この決断は正しかったんだろうか」と悩んだときでも、「これは潜在意識の小人たちが決めたこと。私が気にする必要はない」と考えれば、心が軽くなるかもしれません。
結局、「私」とは何なのか?
受動意識仮説が教えてくれるのは、「私」という存在が思っているほど万能でも特別でもないかもしれないということです。「私」は、潜在意識が決めた結果を受け取り、それを記録し続けているだけの存在。肩肘を張らずに「小人たちに任せておこう」と思うと、生きるのが少しだけ楽になるのではないでしょうか。疲れたとき、立ち止まったとき、この仮説を思い出してみてください。「私は受け手かも」と考えるだけで、心の負担が軽くなるかもしれませんよ。
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