私たちが「自分」として感じている意識。見えないけれど、確かに存在し、日々の選択を意識でもって自分で決めている――と、多くの人が信じています。けれど、もし「それが全部幻想だったら?」どうでしょうか。ここで登場するのが、“受動意識仮説”です。今回は、慶應義塾大学の前野隆司教授が提唱する「受動意識仮説」に注目し、東洋哲学や仏教の思想とも絡めて「自分って何?」を探ってみます。
受動意識仮説とは?自己意識はただの「記憶装置」?
前野教授の“受動意識仮説”によれば、私たちの意識、つまり「自分だと思っているもの」は、実際には意思決定をしていないそうなのです。意識はただ、過去の出来事や感情を記憶するだけの存在であり、行動や決断は「無意識」が先に行い、それを意識があとから受け取っているという仮説です。
ん?もしこれが真実だとしたら、「今までの決断は無意味だったの?」と驚くかもしれませんが、この仮説が投げかける問いは、私たちが「自己意識」と信じてきたものに新しい視点をもたらします。
自己意識の正体=「エピソード記憶」
脳には「エピソード記憶」と呼ばれる、出来事を時系列で保存する仕組みがあります。前野教授の仮説では、このエピソード記憶こそが自己意識の正体であり、「自分とは、実は経験の記憶を積み重ねた倉庫にすぎない」というのです。
哺乳類の多くもエピソード記憶ができることから、彼らも「自分」を感じている可能性はあります。しかし、私たちが抱く「自分で考え、決めている」という感覚は、脳がつくり出した錯覚かもしれないというのです。
本当は無意識が意思決定している?
この受動意識仮説が示すさらに大胆な主張は、「実際の意思決定は無意識がしている」という点です。私たちがよーく考え、行動していると思っていることの多くは、無意識が先に決め、意識は「決めた」と後から錯覚しているというのです。まるで無意識が「ここにサインしてください」と用意し、意識は「自分が選んだ」と思い込むような構図です。
この仮説は、仏教の「無我(無自我)」の概念も連想されます。「私」は存在しない、「私」は幻想だという教えです。自己意識が抱く「自分らしさ」が、じつは脳の産物にすぎないかもしれないと考えると、東洋思想が示してきた「無我」や「非我」の世界に近づいているようにも感じます。
受動意識仮説を裏付ける3つの実験
「そんなことある?」と思われるかもしれませんが、この仮説を裏付ける興味深い実験もあります。
【実験1】自分の目の動きが見えない理由
鏡の前で目を動かしてみましょう。実は自分の目が動いている様子だけは見えません。これは、脳が目の動きの途中映像を「カット」しているからなのだそうです。つまり、脳が結果を先読みし「もう動き終わった」と映像を補完しているのです。
【実験2】脳がタイムラグを埋める現象
目で見たものを「認識」するのに約0.5秒かかるといわれますが、私たちはこのタイムラグを感じません。なぜなら脳がその間を埋め合わせ、「今起きていること」として処理しているからです。こうしたズレを、脳が意識の上で調整している可能性があるのです。
【実験3】指を動かす実験
1983年に行われたリベット博士の実験では、被験者に「指を動かしたいと思った時に動かしてね」と指示し、脳の活動を測定しました。その結果、指を動かす意識が働くよりも前に、脳が動作の準備を始めていることが判明しました。つまり、無意識が先に動作を決めていることが示唆されたのです。
仏教の「無我」と受動意識仮説
「無意識がすべて決めている」という受動意識仮説は、仏教の「無我」と通じる部分もあります。「自分とは何か?」という疑問は、何千年も東洋哲学で語られてきたテーマです。仏教では、自己意識や自我は幻想にすぎず、それを見抜くことが重要だとされています。受動意識仮説も、「自己意識」が幻想である可能性を指摘し、私たちが絶対的と感じている「自分」について新しい視点を提供しているのです。
私たちの体験する世界は本物?
脳が見せる幻想の意識――それが自己意識だとするなら、私たちの行動も無意識の「操り」にすぎないのかもしれません。「脳がつくる現実は幻想?」といった問いは、これまでも科学や哲学の多くの実験や考察に登場してきました。
もし自己意識が幻想なら、私たちが信じてきた「自分」とは何だったのか?受動意識仮説を通じて脳の働きを見つめ直すことで、私たちの思い込みや感じ方に変化が生まれるかもしれません。
否定派のブログも併せて読みながら進めていくとおもしろくて捗ります。
脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説
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