自意識とは何か?「カボチャはいつまでカボチャなのか」を考える

「自分」として存在している意識。ふと「なぜ自分の体に意識があるのだろう?」と思うことはありませんか?たとえば抜けた髪を見ても「自分」とは思いませんが、まだ頭にあるうちは自分の一部のように感じる。この不思議な「自意識」とは一体何なのか、どこから来て、どこに行くのでしょうか?

あるお寺のコラム「カボチャはいつ死んだか」を読んだのをきっかけに、意識や自己について考えてみました。

意識のはじまりをたどってみる

いきものは生まれた瞬間から意識を持っているようで、実際にいつ意識が宿るかはわかりません。遡って考えると、生命の始まりは精子と卵子が出会ったとき。女性の体内には胎児の段階から卵子になる原子卵胞があり、男性の体では精子がホルモンの働きで日々作られます。私たちの意識もまた、この生命の連鎖の中で生まれたものですが、ある時点での「個」としての意識はどう結びついているのでしょうか。

水と炭素の体に宿る「自己意識」という不思議

人体の60%は水、残りのほとんどが炭素と微量の窒素です。案外シンプルな構成要素でできている人間の体に、なぜか「自己意識」という個人の認識が存在している。このことは、なにか奇妙ささえ感じさせます。体は物質である以上、自己意識もまた何かの働きの一部として存在するのでしょうか?それとも、もっと別の存在?

ここで、意識を物質としての「カボチャ」に例えながら、考えてみることにします。

「カボチャはいつ死んだか?」

わたしの読んだコラムでは、おばあちゃんたちが「カボチャはいつ死んだのか?」を議論しています。揚げられた天ぷらのカボチャを囲んだ彼女らは、カボチャが死んだのは「包丁で切られたとき?」「油で揚げたとき?」「食べられたとき?」と、さまざまな意見を交わします。
カボチャは形が変わっても「カボチャ」として認識され続け、存在は消えるのではなく変化し続けています。

人にとっての「消滅」とは?

カボチャが変化し続けるように、人もまた「消えることなく変わり続ける」のかもしれません。仮に、カボチャが畑から切り離されたときが人間の「死」に似ているとしたらどうでしょう。ツルを切り離されたカボチャは、もう元の場所には戻れませんが、どんな姿になるのかも分かりません。私たち人間にとっても、ひとたび生命の場を離れたあとの行方は未知です。ある意味「蔓を切られる」ことが、私たちの「死」にあたるのかもしれません。

死と「自己意識」の消失をカボチャに例えて

自己意識が「生きるための機能のひとつ」としたら、肉体の死と共にそのスイッチがオフになると考えられるかもしれません。自己意識は、脳が果たす役割の一部として備わっているものです。たとえばカボチャが天ぷらになり土に還るように、人の意識もまた「姿を変え続ける」だけで、完全に消えることはないのかもしれません。こう考えると、「死」は、自己意識が循環に戻る、自然な現象の一部とも言えます。

「死ぬのが怖い」という気持ちとカボチャの循環

「死んだらどうなるのか」という不安があっても、「カボチャの行方」をたどると死は消滅ではなく「変化」だと思えてきます。人間も自然界の一部ですから、こうした視点で自己意識や死について考えると、少し穏やかな気持ちになれるかもしれません。畑から切り離されたカボチャが「台所」へ行き、天ぷらになりやがて土へと戻るように、私たちもまた未知の行方をたどっていくのかもしれません。

「自己意識は物質の循環の中で一時的に形を持ったもの」と捉えると、「死ぬこと」への不安も少し軽く感じられるかもしれませんね。

(このコラムを読みました!)
その七 カボチャはいつ死んだか[舎利子是諸法空相不生不滅]

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