「死後は無」なのかな問題の続き――怖くて縮み上がった時、どうする?

「死ぬのが怖い」。ふとした瞬間に感じるこの感情、誰にでもあるものですよね。その恐怖にどう向き合うかは人それぞれ。無宗教の人、唯物論者、あるいは特定の宗教を信じる人。それぞれが、自分なりの「死生観」を持っています。そして、「死生観がない」というのも、一つの立場です。今回は、死への恐怖が膨れ上がり、「怖い!」と縮み上がってしまったときにどう感情と向き合えばいいのかを考えます。前記事とゆるく繋がっていますので、よければこちらもどうぞ。
“死後は無”なのかな問題。死が怖いなら、少し探ってみては?

なぜ死は怖い?「わからない」ことへの根源的な不安

死が怖い理由は人それぞれです。「死ぬときの痛みが怖い」「死後の意識消滅が怖い」「自分が消えるのが怖い」など、恐怖の対象は多岐にわたります。しかし、共通しているのは「わからない」ことへの不安です。生きている間、私たちは「生きる」ことを体験し続けています。それは「知っている」状態です。しかし、死は未知そのもの。命がどこから来て、どこへ行くのか。その答えを持つ人はいません。「これまでの当たり前が通用しない世界への不安」が、死を怖れる感情の源になっているのです。

「死後は無」という風潮と日本人の死生観

死後の世界をどう捉えるかは個人差がありますが、日本では「死後は無」が大人の冷静な意見、という風潮があるように思えます。試しにカフェで「死後の世界ってどう思う?」と話し始めたら、場が妙な空気になるのは目に見えています。死の話題はタブーではないものの、結婚や出産のように自然には話せませんよね。この背景には、日本の「現世肯定的な価値観」があるのかもしれません。

日本人の現世肯定感と「楽しむ」価値観

仏教が日本に伝わったのは5世紀頃。その教義の中核は「輪廻からの解脱」でした。しかし、日本では「現世を楽しみつつ、経を唱えれば浄土に行ける」という現世肯定的な考え方が浸透していきました。現世の充実を大切にする日本の価値観は、とても健康的でポジティブです。その一方で、死について真剣に考える機会を後回しにしがちな傾向もあります。「死後の世界」の話題が浮いてしまうのも、その現れかもしれませんね。

宗教ごとの“死生観”ヒンドゥー教・仏教・神道編。教えが生き方に与える影響とは?

「死が怖い」と感じたとき、どうすればいい?

死への恐怖をどう扱うかは個人次第です。「死は救いだ」と考える人もいれば、「怖いから考えないようにする」人もいます。しかし、恐怖を無理にポジティブに変えようとしても、感情をコントロールするのは難しいものです。ではどうすればいいのか?

恐怖を“保留”してみる

恐怖が膨らみ、思考が暴走しそうになったら、その感情を無理に否定せず、「いったん保留」してみましょう。「死ぬのが怖い」と感じたとき、「何とかなる」「死後は天国」と思い込もうとするよりも、「今は考えるのを一旦やめる」と意識してみてください。それだけで、感情が少し落ち着くことがあります。

客観視する練習をしてみる

保留できたら次に、「怖がる自分」を客観視する練習をしてみるのも効果的です。「なんでこんなに怖がっているんだろう?」「何が一番不安なんだろう?」と、恐怖の対象を冷静に分析することで、少しずつ感情との距離を置くことができます。私自身も客観視を続けた結果、頭の中が落ち着き、恐怖について考えられるようになりました。怯える自分を冷静に眺めることで、思わぬ気づきが生まれることもあります。

知識を吸収し、自分の死生観を築く

死の恐怖を乗り越えるためにおすすめしたいのが、「知識を吸収する」ことです。死にまつわる映画や小説、哲学書、宗教の教えなどに触れることで、死を「考える材料」に変えることができます。「怖くなりそうだから避ける」のではなく、思い切って向き合ってみることで、新たな視点が得られるはずです。恐怖を基盤にした学びは、とても濃密な体験をもたらします。それがやがて、自分だけの死生観を築く手助けになるかもしれません。

怖いなら考えよう――恐怖と向き合う意味

死について考えるのは簡単ではありません。でも、怖いからこそ考えるべきだとも思います。恐怖から目を背ければ、それはいつまでも居座り続けます。けれど、向き合い続けることで、自分なりの答えや納得が見つかるかもしれません。もちろん、考えすぎて苦しくなるときもあります。そんな時は、家族や友人、専門家に頼るのも大切です。誰かに「助けて」と言えることも、恐怖と向き合う上での大切な強さの一部です。死を考えることは生を考えることでもあります。怖がりながらでも、少しずつ前に進んでみませんか?

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