私たち人間は、死というものに対して敏感であると同時に鈍感な一面も持っています。たとえば、遠くの芸能人の死には一時的にショックを受けても、自分や家族の死については深く考えないようにしてしまうことが多いのです。最近読んだ本で「情動は身体の“ホメオスタシス”が基盤である」という記述を見かけ、「もしかすると、死の恐怖にもこの恒常性が関係しているのでは?」と思いました。そこで、今回は死の恐怖がどのように生まれるのか、ホメオスタシスと呼ばれる生命維持の働きとの関係を探ってみたいと思います。
死の恐怖と「穢れ」のイメージ
古代の人々にとって、「死」はどこか穢れや不浄のイメージと深く結びついていました。たとえば、『古事記』に描かれる黄泉の国では、亡くなったイザナミが腐敗し虫にまみれた姿となり、夫のイザナキが恐怖から逃げ出す場面が印象的です。こうした「死=恐ろしいもの」という感覚は時代や文化を超えて共通しています。
恐怖や不安が人間の本能に根付いた情動であるとすれば、私たちが「死」に対し抱く穢れや恐怖は、先祖が繰り返し見てきた死と腐敗に対する記憶が、わたしたちにも刻み込まれているのかもしれません。
ホメオスタシス――変わらないでいたい、という体の働き
「ホメオスタシス(恒常性)」とは、体が一定の状態を保とうとする働きです。たとえば、外の気温が変わっても体温を一定に保とうとしたり、感染症に対抗するために免疫システムが働いたりするのもホメオスタシスの作用です。生命を維持するために、常に変わらないことを目指すこの性質は、生物として生まれながらに持つ機能であり、わたしたちが「変化を避けたい」「今のままでいたい」と感じる理由のひとつです。
脳の「未来予測機能」が不安を生む?その不安を和らげるのもまた脳の働き
体だけでなく、心にも「心理的ホメオスタシス」と呼ばれる働きが備わっています。誰しも「今のままがいい」と感じたり、「慣れた環境を離れるのは怖い」と思ったりするものです。この心理的ホメオスタシスも、死に対する恐怖の根底にあると言えるでしょう。死は私たちにとって最も大きな「変化」であり、この現状維持の働きが、死への恐れを増幅させているのかもしれません。
ホメオスタシスが「死」への恐怖を生む?
神経科学者アントニオ・ダマシオは「情動は身体のホメオスタシスが基盤である」という仮説を提唱しました。情動とは、外界からの刺激に対して瞬時に起こる感情の動きで、たとえば、突然目の前にトラが現れたとき、心拍が上がり体が硬直してしまうのも「恐怖」という情動のひとつです。このとき、ホメオスタシスが本能的に体を一定に保とうとするために働き、その影響で恐怖が生じると考えられます。
同様に、「死」や「遺体」を目にしたときも、私たちは「変わらずにいたい」「生き延びたい」という反応が働き、その結果として死への恐怖が引き起こされるのではないでしょうか。ある意味、「いつか自分もこうなるかも」という共感が、この恐怖を呼び起こしているのかもしれません。
死者に「共感」するからこそ恐怖を感じる
わたしたちが死や遺体に対して恐怖を抱く理由のひとつに、「共感」の能力が影響しているのでは、という見方があります。人間は他者に対する共感が非常に発達しているため、死者を目の当たりにすると、「いつかは自分もこうなるのか」という恐れが浮かび上がります。ほかの動物が同じような恐怖を感じないのは(たぶん)、この共感の働きが少ないためかもしれません。人間が死に敏感な理由は、こうした共感機能とつながっているのです。
結論:変わらないでいたい――だから死が怖い
身体的にも心理的にも、「変わらずにいたい」というホメオスタシスの働きが、わたしたちの死への恐怖を生んでいるのでしょう。たとえば、全く見知らぬ土地へ突然移住するように言われれば、「知らない環境への不安」や「馴染みのない文化への戸惑い」が生まれるように、死もまた未知の場所であり、決して戻ることができない領域です。
私たちが「変わらずにいたい」と感じるのは、古くから受け継がれたホメオスタシスの機能があるからこそであり、それが死への恐怖の一因でもあるのかもしれません。
「生きていたい」と感じるのも、安心できる状態を保とうとするホメオスタシスの働きが背景にあるのでしょう。こうした視点から見ると、「死」への恐怖もまた、生命が備える自然な感覚といえそうです。
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